山口県・新谷酒造で杜氏を務める新谷文子さんは、前職は看護師であり、結婚をきっかけに酒造りの世界に入りました。2018年には杜氏として蔵を率いるようになり、「女性杜氏」として注目されることも増えた新谷さんに、妻、嫁、母親という役割を超えて向き合う酒造りへの想いをお聞きしました。
看護職から酒造りの世界へ飛び込んだ理由

2009年の製造技術研修会にて
私はもともと看護師として働いており、2004年、主人である蔵元との結婚をきっかけに酒蔵にも入るようになりました。蔵の存続が危ぶまれる状況だったため、正職員から非常勤へと勤務形態を変え、徐々に酒造りのウェイトが重くなるようシフトしていきました。
酒造り一本に切り替える決断をしたのは、「将来、日本酒を造りたいからここで修行させてほしい」と門戸を叩いてきたある若者との出会いがきっかけです。「この子の未来を預かるのだから、中途半端な状況はやめなければならない」と思い、看護師を辞めて蔵人たちをサポートしようと決意しました。
当時は30代後半という年齢で、安定した収入がなくなることは不安でしたが、専従することでこれまで行けなかった勉強会や研修に参加できるようになり、勉強時間が大幅に確保できるようになりました。通信教育を受けたり、県外のセミナーを受講したり、他県の蔵へ泊まりがけで勉強へ行ったりと、とにかく学ぶことに時間を費やせるようになり、2018年から夫から引き継ぐかたちで杜氏を務めています。

鳥取の蔵元を訪ねて
男女問わず負担が大きい蔵仕事
「女性杜氏」というと、「かっこいいですね」とよく言われます。ほかの酒蔵を見ていても、女性杜氏さんは気力・体力・筋力があると感じる方が多いです。
しかし、蔵仕事は男女問わず大変なものです。お米は一袋30kgが標準ですし、空瓶の入った大量の箱を倉庫に入れる作業などもあり、酒造り以外にもいろいろな重労働があります。

杜氏になって間もないころ
機械化はもちろんすべての工程でできるわけではありませんし、資金に余裕がない蔵はさらに厳しいと思います。設備がないと人海戦術になりますが、どこも人手不足で、個人への負担が増えると働き口も定着もしづらくなってしまいます。先進的な蔵では男性にも重労働を強いていないそうで、それが理想だと思います。
私が杜氏になってからは、設備投資は積極的におこなっています。昔は槽(ふね)で上槽をしていましたが、200袋以上の酒袋を持ち上げる作業が大変だったため、吟醸用の薮田式圧搾機に変えました。ポンプがなかったころはもろみをため桶で運んでいましたが、あわせて輸送するポンプを買いました。
そのほか、男女関係なくお互いに助け合うことができるよう、蔵人たちとなんでも言い合える関係を築けるように努めています。
母親業と酒造りの両立
とはいえ、やはり子育てと仕事の両立は大変でした。日々の保育園への送迎は基本的に主人にしてもらいましたし、子どもが体調を崩したときは実家の母や病児保育園にお世話になり、主人と協力したり、周囲の助けを借りたりしながらなんとかやりくりしました。
しかし、子供にとっては(特に乳幼児期は)お母さんでなければならない時があるので、そこはしっかり母親業ができるようにさせてもらいました。忙しすぎて当時の記憶はほぼないですが、自分でも本当によくやったと思います。
当時は「これで良いのかな」「子供との時間が少ないのでは」と悩むこともありましたが、保育園の先生、母、子育て経験のある酒蔵の先輩などに相談しながら、精神的にたくさん支えていただきました。
どんな立場にも、乗り越えるべき壁はある

いま社会で活躍している中で私が尊敬している女性は、日本人女性初の国際連合事務次長である中満泉(なかみつ・いずみ)さんです。
中満さんは独身時代も結婚後も出産後も、各ステージ・各年齢で一貫した信念のもと活動されていて、仕事に対する誠実さと情熱に感銘を受けています。彼女の「とにかく勉強すること、経験すること、考えることで人生が見えてくる」という言葉には強く共感し、自分の信念や「何をしたいのか」をしっかり考えることの大切さを学びました。
国連のお仕事は酒造りとはまったく違う世界ですが、私は中満さんの言葉に自分の信念を貫く勇気をいただいています。
男性、女性、嫁、娘、母親など立場は関係なく、それぞれに悩みや課題やつらさ、乗り越えるべき壁はあるのだと思います。努力は報われないことの方が多いですし、挫折ばかりが現実ですが、自分の信念を大切に、一本ブレない軸を持って努力し続けること。たとえその時は報われなかったとしても、努力が自分を強くし、知らない間に前を向く勇気をも身につけさせてくれるのだと思います。
そして、そういう人を人は応援したくなるもので、気がつけばおのずと応援団が増えていて、必ず道が切り拓かれていく。そう信じて、どんなことがあっても前に出続けていきたいと思っています。中山間地域における酒蔵への期待は大きく、その使命を粛々と果たすのみです。
【酒蔵だより:新谷酒造】
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