さまざまな産業にAIが導入される現代、伝統が重んじられる日本酒業界はどのように変化していくのか。
今回の酒蔵だよりでは、2026年に創業300年を迎えた「神蔵」を醸す京都府・松井酒造蔵元である十五代目 松井治右衛門さんが、酒造りを続ける中で見つけたご自身の哲学を綴ってくれました。
「伝統」とはデータの蓄積である
ものづくりにおいて、「伝統」という言葉をよく目にします。私たちのような日本酒の造り手というのは、いわゆる伝統産業にあって、それは誇れることですし、大切にしなければならないのは言うまでもありません。ただ、「伝統」という言葉が思考停止の免罪符や、変化を拒絶するためのマジックワードとして使われることに対して、私は違和感を抱いています。
ものづくりの本来の目的は、極めてシンプルに「良いものを作ること」に尽きます。いかに長い歴史があろうと、いかに複雑な製造プロセスを辿ろうと、作り方は手段に過ぎません。手段が目的化し、プロセスそのものを神聖視してしまった瞬間、ものづくりの進化は止まってしまいます。だからこそ、日本酒製造は基本的にはサイエンス(科学的アプローチ)であると私は考えています。
しかし、これまで守られてきた方法や伝統を軽視することもまた誤りだといえます。方法とは単なる形式ではなく、過去の試行錯誤の蓄積であり、成功確率を高めるための合理的な手順です。伝統とは、長い時間の中で淘汰を経て残った壊れにくい設計であり、そこには環境に対する適応の知恵が圧縮されています。重要なのは方法や伝統を盲信することではなく、「なぜそれが存在するのか」という因果関係を理解し、状況に応じて使いこなすことだと思うのです。
過去の優れた職人たちが残した「型」や「所作」も同じです。茶道や華道、あるいは空手の型がそうであるように、一見すると窮屈に見える伝統的な作法は、実は無駄を削ぎ落とし、最短距離で目的(体験価値の向上や身体操作の最適化)に到達するために先人たちが残したデータの蓄積であるといえるでしょう。
その意図を理解せず、表面的な形だけを重視して真似ることは、まさに手段が目的化してしまった状態です。オーストリアの作曲家マーラーの「伝統とは火を後世に伝えることであり、灰を崇拝することではない」という言葉の通り、私たちは残された過去のやり方という灰をそのままなぞって満足するのではなく、その奥にある情熱や知恵という火がもたらすデータや合理性をツールとして、現代の現場に活かさなければなりません。
蔵人の手作りが生み出す「変わらない価値」
特に日本酒のような醸造分野においては、状況に応じてデータを使いこなすことの重要性が顕著に現れます。酒造りには、制御できる変数と制御できない変数が混在しています。例えば、吸水歩合やもろみの温度はある程度制御できますが、米の出来、麹の生育、酵母の代謝といった核心部分は、私たちには完全には制御できません。私たちが現場でおこなっているのは、厳密な意味での制御ではなく、「誘導」であるといえます。環境を整え、望ましい方向に微生物が振る舞いやすい条件をつくることで、結果として狙いに近づけているにすぎません。
酒造りの現場に立ち、日々もろみと向き合う中で、私は「手作りの大切さ」を確かに実感しています。しかしそれは、作り手の愛情を込めるといった曖昧な精神論によるものではありません。麹や酵母に代表される微生物の微細な化学反応と、米や気候という無数の変数が絡み合う複雑なプロセスにおいて、手作業には機械制御を明確に上回る優位性があります。
蔵人は視覚、嗅覚、触覚から得られる膨大な情報を同時に処理し、発酵の状態をリアルタイムで総合判断しています。機械化が「エラーを減らし、常に安定して80点を叩き出す」ことに長けているのに対し、人間の手仕事は、リスクを取りながら「その年の、そのタンクにおける100点満点のピーク」を狙い撃ちすることができます。マニュアル化できない微細な軌道修正を連続的におこなうための、極めて高度で合理的な品質管理システムこそが、私の考える「手作り」の正体なのです。
一方で、私たちが作るお酒を受け取る側には、理屈を超えた感情が存在することも事実です。久しぶりに訪れた街で、昔から変わらない佇まいの店に出会うと、人は深い安心感を覚えます。移り変わりの激しい現代において、「変わらないもの」は人々の記憶に深く残るのです。
しかしながら、この「変わらない価値」を生み出す裏側には、途方もない作り手の変化と適応が隠されています。創業から300年にわたる長い時の流れの中で、その土地の命とも言える水を最大限に活かし、誰かの心に響き、いつ飲んでも変わらない安心感をもたらす一杯の酒を醸し続けること。それは、気候変動や毎年の米の出来という予測不可能な変数に対して、作り手側が水面下で絶え間なく手段を微調整し、最適化し続けた結果としてのみ達成されるものです。つまり、目的(変わらない品質と価値)を死守するためにこそ、私たちは手段(伝統)を恐れずにアップデートし続けなければならないと考えています。
AIが担う役割と「真のものづくり」
この文脈において、AIという最先端のテクノロジーは決して伝統と対立するものではなく、むしろ、私たちが「火」を守り抜くためのツールになり得るのかもしれません。膨大な気象データや成分分析をAIに任せ、複雑な変数のナビゲーションを委ねることで、職人の暗黙知はより精緻に言語化され、継承されていくはずです。
プロセスの一部をテクノロジーに託すことは、人間がより本質的な領域に集中するための余白を生み出してくれます。機械やAIがどれほど進化しても、決して代替できないものがあります。それは「どんな酒を世に送り出したいか」という強烈な意志であり、人間の内側からしか湧き上がらない独自の美意識です。
伝統を盲信せず、精神論を排し、常に最も合理的な手段を選択すること。変化を恐れずに過去のデータを読み取り、テクノロジーを使いこなしながら、人間ならではの美意識と意志をプロダクトに刻み込むこと。それこそが、私の考える「良いものを作る」ための誠実なアプローチであり、次世代へと「火」を繋いでいくための、ものづくりの真のあり方なのです。
【酒蔵だより:松井酒造】
- 2023年8月:「中学生の職業体験を受け入れて」
- 2023年10月:「京都から世界へ。観光都市の酒蔵として思うこと」
- 2023年11月:「ゲームやアニメと日本酒のコラボ可能性」
- 2024年1月:「ジン&ラム参入で、日本酒とシナジーを生み出す」
- 2024年3月:「『これからの1000年を紡ぐ企業』として、酒造りの伝統と未来を考える
- 2024年8月:「年30回参加!日本酒イベントの醍醐味とは」
- 2024年11月:「海外出張でみえた日本酒の現在」
- 2025年1月:「「神蔵」のデザインに込めた想いと工夫」
- 2025年4月:「無形文化財登録後に見えた意識の変化」
- 2025年7月:「理想を追求して生まれた美しいスパークリング清酒」
- 2025年10月:「寒造りから四季醸造へ。変わりゆく環境と変わらない想い」
- 2025年12月:「“かっこいい日本酒業界”を目指して。創業300周年の先にある冒険」
- 2026年5月:「“伝統とは、データの蓄積である。AI時代の酒造りで蔵人がすべきこと」







































